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今敏(こん さとし、1963年10月12日-2010年8月24日),日本動畫導演,漫畫家。出生於日本北海道釧路市,所執導的多部動畫作品在國際間獲獎無數。他的作品特徵在於個性鮮明貼近你我的人物、角色精神層面的探討描寫、夢境與現實之間的曖昧關係等等。

1生平介紹

主要獎項記錄
2004年以《千年女優》獲得安妮獎最佳動畫片導演和編劇提名
2006年以《紅辣椒》入選威尼斯電影節金獅獎角逐
今敏
1963年 10月12日生於日本北海道。
1982年北海道釧路湖陵高等學校畢業,考入武藏野美術大學視覺傳達
今敏

  今敏

系。
1985年 漫畫作品在講談社的雜誌上初次發表。
1987年武藏野美術大學畢業。
1990年 第一本漫畫單行本《海歸線》(講談社刊)發表。
參與大友克洋的作品『老人Z』擔任美術設定,初入動畫業。
1991年 漫畫單行本《World Apartment Horror》發表。
1992年 在大友克洋總監督的作品《Memories/她的記憶》中,擔任腳本、美術設定。
1993年 在《機動警察2》中任分鏡。
『JoJo奇妙冒險』中任腳本、故事板。
1994年 德間書店連載《セラフィム》(原案:押井守)。(未完)
1995年 《OPUS》連載。(未完)
1997年 《PERFECT BLUE》監督。
1998年 第一部主創劇場動畫《千年女優》投入製作。
1999年 《千年女優》製作中。
2000年 《千年女優》製作完成。
2001年 《東京教父》投入製作。
《KON'S TONE『千年女優』への道》出版。
2002年 《千年女優》公映。
2003年 《東京教父》公映。
第一部主創TV動畫《妄想代理人》投入製作。
2004年 《東京教父》DVD發售。
向TV動畫進軍,製作十三話動畫《妄想代理人》。
2006年 最新作《紅辣椒Paprika》延續了一貫的今敏風格的好作品,也是今敏創作事業的轉折點。
2007年 《早上好》1分鐘短篇。
2009年 劇場新作《造夢機械》計劃開啟。
2010年8月24日06時20分(東京時間),因患胰腺癌逝世,享年46歲。
大友克洋的高足
1990年,今敏擔任大友克洋的《老人Z》的美術設計,正式踏入動畫界,從此開始了他跟大友的長期合作。從漫畫的蒙太奇手法,到動畫亮麗而厚重的色彩,今敏明顯受了大友克洋的熏陶。他曾說,大友的漫畫作《童夢》和《亞基拉》對他產生了極大影響。難怪日本動畫界一直視大友為今敏的師父,而這位年長他10歲的名師也確實難得,多年來一直為徒弟尋找與高人合作的機會,還親自出任徒弟的《藍色恐懼》的策劃。
千年尋愛侶
到了《千年女優》,今敏再次在夢境與真實間來回穿梭。在影片中,電影公司老闆和攝影師,採訪了30年前突然引退的女星藤原千代子。作為戰後的一代巨星,千代子歷經日本戰國、幕府、大正、昭和等大時代,踏遍千山萬水,尋找初戀情人,然而,那位夢中情人,早已在大戰期間逝世。毫不知情的千代子,多年來承受著苦戀的折磨。或許正因為這份日式的浪漫和凄美,《千年女優》在日本和國際上屢獲大獎,亦吸引了Dream Works破例買下版權在美國發行了該片。

2作品一覽

千年女優
◎千年女優
《千年女優》是日本青壯派動畫名家今敏一鳴驚人的動畫作品。此片在全世界影壇上獲獎連連,並與動畫大師宮崎駿的《千與千尋》同被日本文化廳多媒體
今敏的代表作:千年女優

  今敏的代表作:千年女優

藝術節選為年度最佳動畫,今敏堪稱當今日本最受矚目的動畫導演。《千年女優》不但在日本評價極高,海外更在加拿大與西班牙兩地等的奇幻影展獲頒最佳動畫大獎、最佳突破導演獎及最佳亞洲電影獎。除了得獎紀錄輝煌外,也是今年台北電影節唯一獲邀的動畫作品,觀眾反應熱烈的程度無法想象。
浩大製作及奇幻風格令人驚艷的《千年女優》,描述一位女明星戲劇性的一生,本片隨著女明星的口述回憶,帶領觀眾超現實地穿梭在不同時空,做了一場馳騁銀幕上下、真實與幻象世界的旅行,電影格局不凡,劇情精彩感人,加上場面調度與運鏡均十分流暢,整個故事益加顯得豐富生動。
劇情大綱
風靡一生的女明星藤原千代子,三十年前當紅之際,突然從銀幕銷聲匿跡……
三十年後,千代子的影迷費盡千辛萬苦,終於在人煙稀少的寂靜山莊中,找到了隱居數十年的她,並獻上了一把千代子當年不慎遺失的神秘鑰匙。
神秘鑰匙宛若開啟了記憶之門,引領千代子划入回憶的大海,挖掘出一段她從不為人知的愛情故事。那故事像是從千代子輝煌年代的河流溢出,一路流向她無數的電影與映像彙集而成的海洋;也像從遙遠的戰國時代賓士而來,再闖進無邊無際的時空未來……
而傾聽入神的影迷,則隨著千代子在記憶的逆流波谷間擺盪,體驗她那令人憐惜的悲歡愛情;更在波濤洶湧的時空浪潮中,猛然驚覺到那股橫亘千年的濃綿相思……到底被千代子封鎖隱藏的記憶是什麼?而神秘鑰匙又會開啟她什麼重要秘密?那正是在無情的時間洪流里,當記憶與愛情最燦爛交會時,所浮現出最真實且永恆的一代巨星千代子……
妄想代理人
◎妄想代理人
繼人氣玩具設計師鷺月子在回家途中被襲擊之後,小學生牛山尚吾、家庭教師蝶野晴美、警官蛭川也被
妄想代理人

  妄想代理人

同一個少年用金色球棒擊倒。「球棒少年」戴著遮住眼睛的棒球帽,手持金色球棒,腳上穿著金色的旱冰鞋。接手這個案件的豬狩警官發現,先後受襲的幾個人之間,有著絲絲縷縷的相互聯繫,而他們中的每一個,在被襲擊之前都正在承受巨大的心理壓力……
首度接觸tv版動畫製作的今敏在籌備《妄想代理人》的時候就毫不猶豫選擇了自己最擅長的超現實題材,具體注目點則是現代人日漸脆弱的心理世界。故事以連環傷人案件作為開場,在兩集之內就緊緊抓住了觀眾的心。最後五集則是今敏自己肆意發揮想象力的絕對空間。由於放映周期和體制的關係,電視版動畫一向都有「灌水」的習慣。《妄想代理人》可以說是把水降到最低點。尤其是全作的第八集,幾乎完全可以作為一個單獨的精彩故事。而這一集,也是今敏本人最喜歡的一集。
惡童
另,《惡童》監督名單中也有今敏,其分鏡頭語言很不錯。
Anikuri15
◎NHK在這之前也挑戰過1分鐘電視劇《EL POPO TOWN》等各種各樣新的企畫,但這次組織了由資深到新銳的15組動畫創作者,挑戰名為1分鐘動畫的電視界新流派。
第7個短篇——《早上好》
原名:オハヨウ
導演:今敏
製作:MAD HOUSE
前夜生日派對后的混亂,今早卻不得不按照響起鬧鐘的指令起來,迷迷糊糊的狀態下心裡另一個它卻不願意,只想在被窩裡再躺一下,哪怕一秒鐘也行。於是在迷迷糊糊的狀態下起床、刷牙、洗臉、洗澡、更衣、化妝,最後形神合一,「早安」,又是新的一天開始。
兩個身體,一個虛一個實,分辨不出那個是虛那個是實,虛虛實實,這正是最擅長描寫真實與虛幻互相結合相互影響題材的今敏。雖然只是短短一分鐘,卻達到了劇場版的質量,不論是場景畫面還是動作,都需要花費不少工夫。現在名氣很大的今敏,入道時走的卻是漫畫家之路,出過兩本單行本,認識了大友克洋后受邀擔任《老人Z》的美術設定,之後在著名的《記憶三部曲》里《她的回憶》中擔任腳本,漸漸成為大友克洋的左右手。而其導演處女作《未麻之部屋》(完美之藍,PERFECT BLUE)則一鳴驚人,吸引了眾多關注。但帶給他更多名聲的則是後來獲獎不斷的《千年女優》,這部動畫使今敏成為最受矚目的新一代動畫導演。最新作品《帕布莉卡》雖然在製作期間呼聲高漲,卻最終在威尼斯電影節上鎩羽而歸,一度令人擔心這位才華橫溢的導演在表達技巧上有些誤入歧途,但此次的1分鐘短篇卻再度證明了今敏的實力,以及作為一名動畫藝術家最寶貴的才能:對生活的敏銳與永遠的好奇心。

3今敏逝世

附:今敏的遺書
さようなら
  忘れもしない今年の5月18日。
  武蔵野赤十字病院、循環器科の醫師から次のような宣告を受けた。
  「膵臓ガン末期、骨の隨所に転移あり。余命長くて半年」
  妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不盡な運命だった。
  普段から心底思ってはいた。
  「いつ死んでも仕方ない」
  とはいえあまりに突然だった。
  確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、腳の付け根などに強い痛みを感じ、右腳には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、針灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。
  気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。
  宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。
  頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多數派に身の置き所なんかなかったように思う。醫療についてだって同じだ。現代醫療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。
  「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」
  しかし。気力だけではままならないのは作品製作とご同様。
  病狀は確実に進行する日々だった。
  一方私だって一社會人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと稅金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社會のフルメンバーの1人だ。
  だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、
  「ちゃんと死ぬための用意」
  にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出來なかったけど。
  その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる會社を作ること。
  もう一つは、たくさんはないが財產を円滑に家內に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺產爭いがこじれるようなことはないが、この世に殘る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。
  手続きにまつわる、私や家內の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。
  後日、肺炎による危篤狀態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。
  「はぁ…やっと死ねる」
  なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の並発、胸水も相當溜まっている。醫師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。
  「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」
  聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。
  それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。
  ということで早速腹はきまった。
  私は自宅で死にたい。
  周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脫出する方法をあたってもらった。
  妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部醫院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の數々。
  あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。
  妻が脫出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、醫師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出來ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。
  寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。
  「死ぬってのも悪くないかもな」
  理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。
  ただ、一つだけどうしても気に入らない。
  「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」
  と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。
  「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」
  こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本當に死を間近に感じた。
  死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の儘力のおかげで奇迹的に武蔵野赤十字を脫出して、自宅に辿り付いた。
  死ぬのもツライよ。
  斷っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。
  ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。
  私が暮らしているあの家へ。
  少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死體験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。
  自分と自分を含む風景を、地上數メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。
  さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。
  ところが。
  肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。
  ありゃ?
  ある意味、こう思った。
  「死にそびれたか(笑)」
  その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奧の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。
  不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。
  妻を始め、見舞いに來て気力を分け與えてくれた方々、応援してくれた友人、醫師や看護師、ケアマネージャなど攜わってくれている人すべてのおかげだと思う。本當に素直に心の底から。
  生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。
  エクストラで與えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。
  そこで現世に殘した不義理を一つでも減らしたいと思った。
  実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。
  インターネット上でガンの宣言をして、殘りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。
  死ぬ前にせめて一度會って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。
  家族や親戚、古くは小中學校からの友人や高校の同級生、大學で知り合った仲間、漫畫の世界で出會い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で機を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り會えた數知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出會うことが出來た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。
  出來れば一目會いたい人はたくさんいるが(會いたくないのもいるけれど)、會えば「この人ともう會えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に殘る気力はわずかで、會うにはよほどの覚悟がいる。會いたい人ほど會うのがつらい。皮肉な話だ。
  それに、骨への転移への影響で下半身が麻痹してほぼ寢たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。
  病狀を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。
  だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。
  顏を思い出せば、いい思い出と笑顏が思い起こされます。
  みんな、本當にいい思い出をたくさんありがとう。
  自分の生きた世界を愛している。
  そう思えることそのものが幸せだ。
  私の人生で出會った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出會いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって隨分させてもらったのだ。
  いま死について思うのはこういうこと。
  「殘念としかいいようがないな」
  本當に。
  しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。
  両親とマッドハウス丸山さんだ。
  今 敏の本當の親と、アニメ監督の親。
  遅くなったとはいえ、洗いざらい本當のことを告げる以外にない。
  許しを乞いたいような気持ちだった。
  自宅に見舞いに來てくれた丸山さんの顏を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。
  「すいません、こんな姿になってしまいました…」
  丸山さんは何も言わず、顏を振り両手を握ってくれた。
  感謝の気持ちでいっぱいになった。
  怒濤のように、この人と仕事が出來たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。
  勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。
  一番の心殘りは映畫「夢みる機械」のことだ。
  映畫そのものも勿論、參加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて來たカットたちが誰の目にも觸れない可能性が十分以上にあるのだ。
  何せ今 敏が原作、腳本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。
  もちろん、作畫監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの內容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして來たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。
  スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。
  けれど少しは理解もしてやって欲しい。
  だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。
  かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。
  私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って來た。しかしそれも淺知恵。
  丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、
  「大丈夫。なんとでもするから心配ない」
  とのこと。
  泣けた。
  もう號泣。
  これまでの映畫製作においても予算においても不義理ばかり重ねて來て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって來た。
  今回も同じだ。私も進歩がない。
  丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。
  才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。
  何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土產に冥途に行けるというものだ。
  確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描寫の技術がこのまま失われるのは単純に勿體ないと思うが、いた仕方ない。
  それらを世間に出す機會を與えてくれた丸山さんには心から感謝している。本當ににありがとうございました。
  今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。
  両親に告げるのは本當に切なかった。
  本當なら、まだ身體の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。
  「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて來て本當に良かった。ありがとう」
  突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。
  それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて來た頃。
  一大決心をして親に會うことにした。
  両親だって會いたがっていた。
  しかし會えば辛いし、會う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顏を見たくなった。直接、この世に產んでもらった感謝を伝えたかった。
  私は本當に幸せだった。
  ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。
  私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。
  寢たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。
  「ごめんねぇ!丈夫に產んでやれなくて!」
  何も言えなかった。
  両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。
  顏を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。
  ありがとう、お父さん、お母さん。
  二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。
  數えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。
  幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。
  本當にありがとうございました。
  親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十數年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと殘念だが、分相応だと思っている。
  特にこの十數年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。
  両親と丸山さんに直接話が出來たことで、肩の荷が下りたように思う。
  最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。
  あの余命宣告以來何度も二人で涙にくれた。お互い、身體的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出來ないくらい。
  でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて來られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。
  「私、最後までちゃんと伴走するからね」
  その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。
  「私の妻はすごいぞ」
  今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。
  私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。
  思い起こせば、結婚以來「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出來る時間が出來たと思えばガンだった、ではあんまりだ。
  けれど、仕事に沒頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本當に。
  生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。
  気がかりなことはもちろんまだまだあるが、數え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。
  最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治醫のH先生、そしてその奧様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。
  自宅という醫療には不便きわまりない狀況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご儘力いただき、どれほど助けられたことでしょう。
  しかも、ただでさえ面倒くさく図體と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも勵まされることも多々ありました。
  深く深く感謝いたしております。
  そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と儘力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式會社KON』STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。
  本當にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。
  2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家內を呑み込んでいたことでしょう。
  何から何まで、本當に世話になった。
  で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家內に協力してやってくれぬか。
  そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。
  心から頼む。
  さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。
  世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。
  じゃ、お先に。

今敏的各種作品

今敏的各種作品
以下是全文翻譯:
再見了
忘記不了(2010年)5月18日那天,武藏野紅十字醫院,被循環科醫生告知「胰腺癌末期,癌細胞已經進入骨髓,最多只有半年生命了」。聽聞這個消息后,和妻子二人頓時呆住了,感嘆著為何命運會如此捉弄人。儘管以前就常常在想「即便突然死去,也沒什麼太驚訝的」, 但事情發生的也太過突然了。
twitter訃報截圖

  twitter訃報截圖

或許之前就有過一些預兆,兩三個月前,後背和大腿根部開始疼痛,右腿甚至邁不起來,就連走路都很困難,為此去看了針灸醫生和按摩師。但一切並沒有好轉,經過MRI和PET-CT檢查后,最終得知自己將不久於人世。當妻子知道我的病情后,四處聞訊延命的方法,然而得到的答案卻是無葯可醫。
得到了身邊朋友的支持,我做出了和一般人不同的決定,放棄使用抗癌藥物,「用自己選擇的方式走完剩下的日子。」但是光靠意志力依無法堅持,就像創作動畫一樣,病情卻日益加重。
而作為社會人,我至少有一半行為是遵循著大眾價值觀的,比如按時上稅,為一家了不起的公司工作。和為了延長生命而做好準備相反,儘管「要做好面對死亡的準備」,但事實上卻完全沒準備好。一方面我將著作版權託付給兩位親友,讓他們成立一家小公司;另一方面,把我為數不多的財產交給妻子保管。不管今後會不會發生遺產糾紛,為留下的妻子解決好今後的事情,也讓我能安心的前往另一個世界了。
手續方面是我和家人不太擅長的,預備工作都是在朋友的幫助下得到了快速的進展。日後,因為癌症而處在病危狀態時,在遺書上簽字時,想到死也沒有辦法吧。感嘆著「啊,終於死了」。
兩天前被送到武藏野紅十字急救,只待了一天又轉到同一醫院急救。再次仔細檢查才知是肺炎併發的胸水。問醫生,回答很官方,這點我也很感激,「或許再有一天兩天,即使撐過去了也恐怕只有一個月左右了」,這樣說著時,感覺卻像是在報「天氣預報」那樣。那是7月7日的事情了。真的是個殘酷的七夕啊。
我想死在自己家裡,可是想到最後會給周圍的人帶來很大困擾,我便想著逃出家裡的方法。妻子的堅持和醫院的放棄無論哪種態度實際上都是一種助力。「無論是半天還是一天與其呆在家裡還不如出來吧!」,這樣說著之後,便在陰森森的病房裡一個人等待著死亡。曾經想過即便死了也不是什麼壞事吧,面對自己這樣的心情比起驚訝可能更加覺得鎮定。
可是這有一點無論如何也不想,「死在這樣的地方真的非常討厭啊」。於是,從牆上的日曆開始環顧四周,「哎哎,日曆也排成了列隊,我的幻覺也未免太個性了吧」。意識到這是職業習慣時我笑了。也許這是我距離死亡世界又近了一步。真的感覺到了死亡的臨近。
托很多人的福,我奇迹般的從武藏野紅十字逃了出來,回到了自己的家。雖然並不是對武藏野厭惡,這只是誤解。但是正因為如此才會特別的想回到自己的家,回到我一直生活的家。讓我驚訝的是,當回到家中的那一刻,居然產生了人們常常說到的「看到自己靈魂出竅」體驗:在距離地面數米的地方,俯瞰著房間,自己被包裹在被單里。本來是應該留在家裡等死的,卻熬過了肺炎。「竟然沒有死掉」,我這麼想到。到了後來一直想著「死亡」的自己,迷迷糊糊中「重生」的念頭在腦海里出現。神奇的是,第二天我居然再度有了力氣。我把這一切歸功於妻子,探病的朋友,醫生,以及護士們。
既然再度充滿了力量,我決定不能這樣繼續下去了。僅有的生命,要好好的利用起來,並且要至少還一份人情。我只告訴了為數不多的人,自己身患癌症的事情,甚至連父母都不知道。想到會給工作帶來麻煩,於是怎麼也說不出口。本來打算在互聯網上公布這個消息,並記錄下自己剩下的人生。但是即便今敏個人的死亡不是大事,但也會造成騷亂,對不起身邊的朋友和親人,對此我感到十分抱歉。
去世之前,我還想和許多人再見一面,聊上幾句。這些日子裡,家人、從小學關係很好的朋友、中學同學、大學同伴;漫畫時期認識的好友、動畫世界里一同工作、喝酒、給予彼此靈感的夥伴;以及成為動畫導演后認識的人們、全世界我的影迷和網路上的朋友,都陪伴著我。想和更多人見面,但又在想「今後再也見不到這個人了」,這樣猶豫的念頭愈發堆積,令我無法面對死亡。即便身體有了力氣,但我時日已經不多。和他人見面需要太多決心,見面之後也會痛苦,實在諷刺。而且癌細胞已經轉移到骨髓,我的下半身開始麻痹,不願意讓人看到今敏瘦骨如柴的模樣,我希望朋友們能記住那個健康的今敏。
現在還不知道我病情的朋友們,我要向你們說句抱歉,我希望你們能理解我任性的決定。「今敏本來就是這樣的傢伙」,回憶起你們的臉,腦海里浮現了往日的笑容和美好,感謝你們給了我如此美妙的回憶。我珍惜喜歡自己所生活的世界,能抱有這樣的想法,就是一種幸福。
即使是與我的人生相遇很少的人們,不管對我是肯定還是否定,果然都對今敏這個人的形成是必要的吧。所以感謝與所有人的相遇。我要接受住即使是40歲僅過了一半就要早逝的結果,這是我自己而非他人的命運。也許這是個好念頭,所以請允許我這麼想。這就是我現在對於死亡的思考,我真的感受到「很遺憾但實在無可奈何」。
但是,很多儘管放棄也是會背負歉意的人,那些無論我的病情多麼嚴重也沒辦法的人,那就是我的雙親和MAD HOUSE的丸山先生,也就是今敏的血親和作為動畫監督之路上的父親。雖然遲了些,但我想把自己真實的心情毫無保留的告訴他們。懷著乞求能得到他們原諒的心情。
看到來家看望自己的丸山先生的臉,一時止不住流淚和羞恥的心情,於是對他說了「對不起,讓您見到這幅姿勢」。那時,丸山先生什麼都沒說,只是一邊搖頭一邊握住了我的雙手。我頓時充滿了感謝之情,心中湧起了怒濤一般的歡喜之情,那是與他共事以來言之不盡的感謝。這也許聽起來有些誇張,但我唯有此說。也許可以任性的說,我感到一下子被他原諒了。
我心裡最挂念的是電影《造夢機器》,姑且不論電影本身,也擔心參與制作的工作人員們,這讓我無可奈何。因為,我擔心由於自己的笨拙而導致至今嘔心瀝血描繪出來的作品會被砍掉,很有可能造成誰都看不到的結果。為什麼是我負責原作、腳本、角色與世界觀設定、分鏡、音樂等等一切動畫的工作呢?當然,作為作畫監督和美術監督與很多工作人員有共同點,但是基本上都是非我就不能理解、製作不出的內容。變成這樣可以說是我的責任,但還是希望能夠作出與我自己的世界觀共有的東西還努力。所以正是因為作出了這樣無德的事情才會讓我的骨頭痛如壓軋吧。
正因為如此,今敏會被人說「原來是那樣的傢伙」;正因為如此,我多少也要作出和他人不同、凝縮了「怪東西」的動畫作品。也許這是相當傲慢的說法,但請看在癌症的份上原諒我吧。
我當然也不想束手等待死亡,於是起了「即使今敏死了之後也要讓作品繼續下去」這樣膚淺的念頭。丸山先生向我說「沒關係,不管什麼都能做所以不用擔心」的時候我嚎啕大哭。至今電影的製作也好預算也好都欠了人情債務,但最終都是由丸山先生來做。與之前一樣,我沒有任何進步。與丸山先生盡情談話之後,我才感到正是因為他,今敏的才能和技術才成為了業界的寶物。可惜了這份才能,真的好想堅持下去啊。我會懷著對MAD HOUSE的丸山先生的這份敬仰,多少會變得自信,將此作為禮物走入冥界吧?
確實即使不對別人說也好,只是單純不想讓奇思怪想和細緻描寫的技術流失,是僅此而已的無可奈何。因此非常感謝丸山先生給我機會讓這些思想和技術能夠展示於世。今敏作為動畫監督真的是很幸運。我痛苦的把自己的病症告知雙親,本想趁身體還能自由行動時告訴札幌的雙親,但病情發展迅速,但最終是在臨終之前的病房裡很唐突的打電話告訴了他們。我 說到「我因為胰腺癌晚期恐怕要死了。父母生下我真是太好了,謝謝你們」。二老被突然告知肯定無法忍受,為何我那時已經有死的覺悟了呢?
在我回到自家,好幾次因為肺炎病危的時候,終於下決心見見父母了。我非常想見他們,但是即使痛苦、沒有力氣我也要見一面,並直接感謝他們把我帶到這個世上。我真的很幸福,雖然比別人的人生快了一點,對於我的妻子也好雙親也好,還有我喜歡的人們都感到十分抱歉。與我的任性相比,翌日雙親從札幌趕來看我,昏睡中母親說「真對不起!沒有生給你一個健康的身體。」。這讓我無法忘記也無法回答。雖然與雙親度過了短暫的時光,但這已足夠。親眼見到對方的臉,就會全部理解了。謝謝你們,父親母親,作為你們的孩子出生在這個世上是最幸福的事,我對你們的感謝數之不盡。幸福雖是重要的事情,但同時也要感謝你們養育了我感受到幸福的力量,真的非常謝謝你們。
先雙親一步雖然很不孝,但這數十年間,我也獲得了作為動畫監督把自己所愛一展拳腳,達成目標的評價。雖然作品沒有大賣有點遺憾,但沒關係啦。在我的人世中,生活的密度是別人的數倍,相信雙親也很理解我所想。能對雙親和丸山先生直接說出這些話,讓我如釋重負。
要給比誰都挂念著的,依賴到最終的妻子。宣告餘生以來兩人數次落淚,每天彼此身心殘酷,難以言語。但是能夠多次度過痛苦的日子,正是妻子在那之後對我所說的「我會好好陪伴你到最後」這樣強大的話。正如她所說,為了不讓我擔心,處理各種繁雜事務,又是整理,又是找護工,看到她繁忙的背影我不禁感動「我的妻子真是厲害!」「現在才這麼說嗎?」不,是比之前感受到的更多了。即使我死後,我也相信她能夠很好的為我送行。想來自結婚以來一直沉浸工作,能夠每日悠閑在家度日是從患了癌症開始。埋頭工作是因為具備才能,我的妻子能很好的理解這一點,想到這裡,我就覺得自己真是幸運。從生到死都陪伴我去迎接,對此我感激不盡。挂念的事情當然還有很多,數之不盡,但萬事歸終。
另外,對於至今仍然難以接受、並在我家給予我最終看護的主治醫生H先生以及其妻護士K女士的表達深切感謝。因為在自家醫療上有很多不便,為了減輕癌症的痛苦他嘗試了很多方法,想讓我在這個過程中至少能夠舒適一些。面對我這個因為麻煩而脾氣很大的患者,他們超越了單純的工作,給予了我們夫妻人性的關懷和支持,以及人格上的鼓勵。再次深深感謝。
終於到了最後,五月中旬知道自己生命即將走到盡頭的時候,傾盡全力給予我最大支持的兩位朋友,KON STONE工作室的成員也是我高中時代開始的好友T先生,以及製作人H先生,衷心的謝謝你們。真的是太感謝了,從我貧乏的辭彙中很難找到對你們的感激之詞,不過我們夫婦確實受到了你們無微不至的照顧。要是沒有你們的話,我大概會死的痛苦,就連妻子也會被這份痛苦所折磨吧。不論怎麼說,真的是太受你們照顧了。雖然不好意思,但請幫助我的妻子一起,直到我入土為止,這樣我也能安心的走了。拜託了。
讀完這麼長文字的各位,我要感謝你們。懷著對世界上一切美好的感激,我就此落筆。那麼,我就先走一步了。
今敏
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